主にひとりごと

タイトル通り、ときぶいすの担によるひとりごとです。感じたことを語ったり、好きなことを話したり

『火喰鳥を、喰う』を、観る

半年前、今年の4月に宮舘さんがご出演なさるとの一報を受け、公開日を楽しみにしていた映画『火喰鳥を、喰う』

 

公開からおよそ1週間ほどが経ち、その間に4回鑑賞しながらちまちまと感想を書き溜めた。

2週目以降は副音声や書き下ろし特典もあるとのことだけど連休はめちゃめちゃに忙しいという個人的な事情があるのでとりあえず11か12のレイトショーに行って特典は何がなんでも確保したいなと画策している。

 

以下、映画版『火喰鳥を、喰う』感想。映画および原作のネタバレとやや批判的な内容も伴うので読む際には十分にご注意ください。

 

 

 

 

○原作との相違点(良かったとこ)

 

雄司と夕里子の物語、としての改変部分は見事だったと思う。
特にお弁当係が雄司の役目で運転係が夕里子の役目になってるところ。
藤村宅へ行く前のシーン、夕里子を運転席に乗せた時に「よろしく」と言っていることもあるから、もしかしたら雄司って運転免許持ってなかったりするの、か……?とかぼんやり思った。
初回で見た後でふせったーにも書いたけど、夕里子がある朝ニコニコで台所に立ってお弁当を作る描写、そして北斗が出てきた辺りから運転役が雄司にすり変わっている描写は分かりやすい違和感とすんなり受け入れてしまう“現実の差異”って感じですごくよかった。

あと、喫茶店で全てを済ますんじゃなくてお墓の前で日記に「久喜貞市は死んだ」と書き込むの好きだったな。
雄司と北斗が顔見知りじゃないという改変も、最初はどうかと思ったけど「東京を捨てて故郷の手頃な同級生と一緒になったわけか」とか吐き捨てさせる流れと、2つの現実における夕里子の夫との対比を演出するためのセリフと思うと嫌いじゃない。

文章と違って映像に関してはそれなりに“分かりやすいセリフや描写”が必要だと思うんだけど、その部分の改変は良いなと思う部分も多かった。

尺の都合上、伊藤軍曹の親族の場面をお母さんのセリフで消化したのもいいなぁって思った。ラストシーンに関してはふせったーに綴ったのでリンクを読んでもらうとして、私個人としては「蛇足だなぁ」と思いつつも、北斗の顔をスコップで滅多打ちにした場面がバッチリ描写されてニッコリすると共にあの鬼気迫る勢いで北斗の顔をボコボコにして殺した雄司が火喰鳥を食えず(抗えず)に大人しく消えてなくなってしまうとも思えないし。
だから映画版は最後にちゃんともう1つの現実が侵食してくるのに抗って、「自分(久喜雄司という概念ではない)の存在を千弥子の世界にかろうじて残す」という、原作とは少し違った現実に着地したんじゃないかなと私は受け止めることにした。
↓はふせったーのリンク

https://x.com/TokiV56/status/1974112265948520891?t=YMMmYIiYk_tesdhgRzSMCQ&s=19(感想①)
https://x.com/TokiV56/status/1974116427847319606?t=t9nLoIQoOHuS28-KO_ifYw&s=19(感想②)


ちなみに、お墓に彫られた文字が保のものに書き換わった時の字面が個人的にめちゃくちゃ好きだった。

保(平成二十年)
節子(平成十九年)
雅史(平成二十年)

と、本来の享年の時系列ならば絶対にその並びにならないはずのものが出来上がっていたのが後出しで書き換わった現実感があってよかった。

 

 

 

○原作との相違点(納得いかなかったところ)

 

ちょっと流石に端折りすぎ部分は多かった。明確に描写するのに抵抗がある(というか流石に人肉食とかについて言及するわけにいかなかったんだと思う)とはいえ、夕里子が死んでしまう場面はもうちょっと丁寧にしてほしかったなぁと思うし、亮くんの存在がなかったことになる描写のあと、「亮くんを知ってる雄司」と「亮くんを知らないけど雄司と会話を成立させている北斗」の会話ほしかったなぁ…。特に動揺した風もなく現実が書き換わっていることをしれっと会話の中で現実として肯定してしまう発言があった方が個人的には流れとして「そういうもの…か?」と思える部分が多かった気もする。

 

あと、致し方ない部分はあるにしても夢の中のやり取り(夢から覚めたらトラックに轢かれかけたり、軽トラで保と雄司が会話するシーンがあったり)を完全に「保と雄司のもの」として描いてしまったのは個人的にどうしても受け入れられなかった。
前者についてはラストで千弥子も同じ悪夢を見ていたことが語られていたから対比構造としてはいいとしても、軽トラの中のやり取りは原作を読んだら完全に「貞市と千弥子のもの」だったことが分かるからそれを書き換えてしまうことだけはやっちゃいけなかったと思う。
個人的に端折りに端折るくらいだったら雄司と夕里子の恋愛模様を削れるパートあったやろ…とは感じてしまった。夢の中に幼い千弥子を入れたり、軽トラ内での悪夢のシーンも一人称視点で「おじいちゃん」の顔を見せないように描写することだってできただろ…(というか何で唐突にあのシーンを「雄司の視点」としてぶち込んだんや)(それなら百歩譲って一言でもいいから「貞市」にも「アイツが死んでくれたらなぁ」って言わせてくれよ)

 

北斗があたかも全部を知っていた感じで暗躍してた風になっちゃったのも、尺の都合上どうしようもなかったとはいえちょっと残念。原作では北斗も割と大真面目に巻き込まれて動揺してるというか、ちゃんと解呪を失敗して「もう駄目だぁ…」って言う(そう言葉にすることで“失敗の現実”を肯定する)描写はあってもよかったやん?とか思ったりした。

でも、こういう私の感覚って私がどうにも展開的に北斗に肩入れして見ちゃったからって部分はあるだろうなぁと思うし。
作り手側はより雄司と夕里子の関係値にフォーカスして描くと共に、そうすることで映像で表現しきれない裏側(千弥子の「守る」という意思は腹の子への“母”としての執着からくるものだった、とか)を敢えて見ないことにしていい落とし所を作り終着点に漕ぎ着けたのは普通にすごいと思う。
正直、これ映像化するの無理やん…と原作を読んで思っただけに上手く着地させたなぁと感じたのも事実なので。

だとしても軽トラのやり取りと突然の亮くん概念は絶対やっちゃいけなかったと思うし、シーンの“順序”はもうちょっとどうにかなったと思うけどな(強い意思)

 

 

 

○北斗総一郎を演じた宮舘涼太について

 

やっぱり北斗総一郎は宮舘さんが演じて正解だったなと思う。これは贔屓目なしに。
宮舘さんの声色、声質、喋り方のトーン、語りかけ方。明らかに1人だけ異質だった。
演技経験が少ないとかそういう話じゃない(それも少なからずあるけど)。シンプルに宮舘さんの発声が他の人と違ってやや舞台仕様というか、“作った”ような喋り方だったから。
説明セリフや荒唐無稽な言葉を滔々と語る北斗の語り口があまりにも嵌りすぎている。どう考えても1人だけ異質なのに説得力があって良い。事実と虚構を行き来できそうな変な空気感を纏って語りかけてこれる宮舘さんでよかったと思う。

何がいいって、清々しいくらいに夕里子と夕里子以外で態度が違う。喫茶店のシーンとか夕里子にはハキハキ喋って前のめりに口数も多いのに雄司の存在に言及する時は露骨にトーンが低い。別に天文部で知り合ってたっていいだろうにわざわざ軽く貶して牽制しておく余念の無さ。
ついでに言うならブラックホールの説明セリフを途中で奪われた時の視線のやり方がめちゃくちゃ好き。
貞市の死を肯定させるため日記に書かせる時、雄司だけが疑問を口にした時の「でも僕が言わなかったら、こんな馬鹿げたことをやりはしなかった。そうでしょう?」の語り口、そして文字を書いている時の雄司を見つめる顔つき。
真意を見せない男の美しさすら感じられる狂気がうっすらと滲んでいて堪らなくよかった。

というか、この北斗は心の底から雄司という存在を排除したがっているんだよね。夕里子を“孤独”の外へと追いやった久喜雄司という存在そのものを心底疎ましいと思っている。
その表現が分かりやすい。
「こんな馬鹿げたこと」という言葉の裏には、要するにかつてそういう提案を「馬鹿げてる」と嘲笑されながらも生きてきたことへのちょっとした抵抗なのかもしれないし。
終盤に差しかかると雄司への嫌悪が更に強くなる。むしろ夕里子を手に入れるためではなく雄司を排除することの方に重い執着を抱えているんじゃないかと言いたくなるくらい (そこまでこの脚本が練られているとは思わないけど、もしそうなら、雄司の存在が“誰か”としてでも思念体として千弥子の現実に生きているのって半分くらい北斗の逆説的な執着によるものなのでは…)。

 

映画版の北斗は夕里子を手に入れることへの執着にかなり重きを置かれていたから、そういう意味でやや私の解釈に合わない部分はあったけど、「その北斗」のオーダーに対する宮舘さんの回答は個人的に良かったなと思う。
私は、北斗がそこまで露骨に夕里子のことだけ見ている奴とも思わなかったし絶叫するような奴には到底思えなかったけど、「久喜夫婦」と日記の処遇について言い合う北斗の横顔は筆舌に尽くし難いほど良かったし、雄司に消えろと絶叫する北斗の切実さも宮舘さんの思う“素直”の解釈がよく現れていた。

「夕里子は久喜家の嫁という現実」を向けられた時の北斗の横顔めちゃくちゃ好きだったんだよなぁ…。
「貞市の死」以上に、北斗にとっては夕里子が雄司を自身の夫と認めている現実を否定したいから、それに関するワードが出る度に表情がサッと深刻になる。
「あの日記、燃やします」と言われた時、瞬間的に僅かに北斗の頬が引き攣るのめちゃくちゃ好き。
その直後、ほんの少しだけ視線を下げることによって思案している最中の北斗の目が綺麗な真っ黒になっていたのもすげー好き。あの瞬間の宮舘さんは自ら目のハイライトを消していて興奮した。

その辺のあれやこれやを経て千弥子の家を北斗が訪ねてきたシーンで大歓喜した。
「妻の夕里子」を紹介する時の北斗のこれ以上ない晴れやかな表情。まるでお人形さんのように動かない表情で慇懃な様子を見せる夕里子との対比。
半年前に原作を読んで想像したそのままのシーンだったから心が震え散らかした。


そもそも私が宮舘さんの出演を知って原作を読んだこともあり、大前提として原作の北斗のセリフを宮舘さんが口にすると思いながら読んだというのはあるけれど。
北斗の言い回しや長台詞の抑揚とかが想像したそのまんまだった。
じっくりと“籠り”や現象に関して説明を施しつつ、時折ふわっと関係のない話を挟んで虚を突いてくる。
信じる気もないし呑まれているつもりもないけれど迂闊に拒否することもできず、そのせいで常に手遅れになっている絶望感を味わわされる。
芝居なのは分かるんだけど、あまりにも宮舘涼太すぎる

現実と虚構の狭間を生きる“アイドル性”をそのまま纏ってスクリーンの世界に存在している。

どこまで本気で言っているのか分からない「死んだ人間の魂が〜」のくだりを見ながら、これは本当に宮舘さんが演じて正解だと確信した。「僕は幽霊なんて見たことがありません」のキッパリとした“威張るように言うことじゃないだろ”感はマジで脳を焼かれた。「僕の信じる理屈に合わないからです」の悠々とした言い方も。
夕里子のセリフを借りると「“何か”としか呼べない感覚」に関して北斗は北斗にしか言語化できない彼なりの理屈がある(ただし一般的にそれは懐疑的にしか受け止められない)ということを伝えてくる。
原作を読んだ時の感想にも書いたけど、北斗の持つ早々に理解はできないけれど良くも悪くも「それはもう、そういうもの」として受け止めざるを得ない感覚をここまであっさり味わえるのは宮舘さんだからだと思う。宮舘さんがバラエティ等でやっているのは正にそれだから。
だから私はこの役の抜擢に不安を覚えつつも楽しみにしていたし、それが想像通りの嵌り方をしていて嬉しかった。

 

前述の通り、作品そのものの構成については少し批判的な立ち位置を取らざるを得ない。
映像作品としての着地点は上手く作ったと思うけど、そこへ着地するためのオリジナル要素が入りすぎたことで取っ散らかった部分もかなり多かったなと思うし個人的に許せない改変もあったし。
でも、宮舘さんのファンとしては好きな作品だったなと。この言い方は望まれるものではないだろうけど、なんか、中の人の話をするのなら水上さんと宮舘さんという方向性の違う強さを真正面からぶつからせた結果こうなりました、みたいな結末なんじゃないかと思えてきた(これはちょっとした現実逃避なのかもしれない)。
ムビチケはまだまだあるし、行ける限りは観に行くつもり。思うところがないわけではないけれど、贔屓目抜きにして北斗総一郎に宮舘涼太を選んだのは正解だったと私は思っているからね。

 


○最後にどうしても許せなかったシーンにツッコミを入れておく

 

北斗「解呪の儀式は明日だとお伝えしたはずですが?」
私「ほなお前のその装束と物々しい火は何や、予行演習するタイプか」