主にひとりごと

タイトル通り、ときぶいすの担によるひとりごとです。感じたことを語ったり、好きなことを話したり

義と忠と情と覚悟で生きている(SANEMORI感想)

新春歌舞伎公演SANEMORI

1月19日の公演を観劇してまいりました。
コロナが蔓延して以降、実は初めての東京。
仕事の関係上、おいそれと人のいる所へ行くわけにいかず、3年ほど現場を手放していたのですが(スノラボ参戦は大阪ということで許可した)。

今回だけは何があっても見送ることはしたくない、と思い仕事を調整して許可を得て東京へ。


宮舘さんのことを目にとめ、強烈に「この人だ!!!!」と思い推すことに決めて早いもので3年半。
観劇できて本当によかったなと思います。

3年半、つまり遡ると19年夏。
だからまぁ、実を言うとABKAIの頃既に宮舘さんに落ちてはいたんですけども。
そして19年秋っていうとコロナ前なんですけども。
その時はね、行かなかったんですよね。
行かないことを、選んでしまった。
今にして思うと本当に有り得ないんですけど、その時の私は行かないことを選んでしまった。
めちゃくちゃ後悔したし、宮舘さんを好きになればなるほど悔やんでも悔やみきれなくて。
だから、何がなんでも今回だけはって公演が決まった時からなるべく仕事の調整が利きそうな日だけ狙って申し込んで。
ありがたいことに、観劇してきました。



何度見ても市川團十郎の御名の隣に宮舘さんのお名前があることに感激して。
筋書に載った白塗りのお顔の美麗さに感動して。
幕が開いた瞬間からクライマックスを担う義仲様で涙を流した。




開幕と共に木曾義仲という源氏の若武者が平氏を相手取り圧倒する。部下たちが「大将だというのに単身で乗り込まないでください」と制しても「大将である俺自らが先陣を切るからこそ数に打ち勝てるのだ!」と更に自身を巻き込んで味方を鼓舞する。
勇猛な若武者が華々しく殺陣を繰り広げ、「いざ、いざいざいざぁ!!と平家の兵たちをばったばったと倒していく様は圧巻だった。
雄々しい殺陣、華々しい見得切りの連続。
木曾義仲という人が、華と威光を放ち、見る人を圧倒していく。
こんなところを見せられては、単身で先陣を切るその行為を無謀だなどとは言えない。
ご自身が言う「俺が先陣を切るからこそ」という言葉が大言壮語でないことも理解できてしまう。

平家の軍を退けた後、義仲様が思いを馳せるのは亡き父、義賢。
場面は変わって、義仲様が産まれる前の時系列へ。



「平家にあらずんば人にあらず」

という有名な言葉にもあるように、平家が本当にやりたい放題していた時代。
それでも、いつか源氏の再興をと源氏の象徴である白の旗を隠し持っていたのが何を隠そう義仲の父である義賢。
病床に伏せる人、ということで紫の鉢巻をしてお召し物を着替え再び登場する宮舘さん。
もうね、びっくりした
既に観劇された方から聞いてはいたけど、義仲・義賢で声色と発声がまるで違う
勇猛果敢な若大将の義仲様は溌剌としてまっすぐな力強いお声。
対して義賢様は年と病によりやや嗄れた、義仲様と比べるとほんのりと歌舞伎寄り(?)なお話しのされ方。
節回しはまったくもって現代のソレなんだけど、声の抑揚が分かりやすい。
元々、私は宮舘さんの喉の使い方(抑揚により声が裏返るところとか)がすごく好きだったんだけど、あぁこんなに色気がある声色をしてらしたんだなと実感して何故か目が潤んだ。
あと、何よりもでかい
何故だろう、義仲様を数分前まで見ていたのに。
同一人物だと知っているのに。
甲冑を身に纏う義仲様に対し、義賢様は病床の男だというのに。
義賢様が、義仲様と比べて二回りほど体が大きく見えた
これは本当に何でだったのか分からない。
髪のせいか?とも思ったけど、討ち入りされた義賢様がざんばら髪で薙刀を持って登場する時より前から、最初に登場された時からずっと義仲様よりでっかく感じていた。



さて、義賢様は心ならずも平家に仕える身なれど、いずれは源氏の再興を、と目論む男。
そんな男の元へ平家の兵が大挙をなしてやって来ます。
病に伏せることさえなければ、傍若無人な振る舞いをする平家方に敵対してやる気でいたけれど、と無念を露わにする義賢様。
せめて、と自身の子をお腹に宿す妻の葵御前と源氏の象徴である白旗を託し、1人屋敷に残り討死の覚悟です。
葵御前さまを呼びつけ、小まん達と一緒に逃げろと命ずる義賢様と、夫である義賢様と離れたくないと泣き崩れる葵御前さま
源氏の未来のために逃げろと義賢様が諭すところ、本当に素敵だった。
義賢様は自身の死に場所を既にこの屋敷だと決めていて、けれど愛する妻には逃げ延びてほしいと願いを込めて「葵」と呼ぶ声の優しさ
呼ばれて顔を上げた妻へ別れを告げる「さらば」に滲む、避けられない妻との死別と産まれてくる子を見ることができないことへの嘆き
命をとして最愛の妻へ白旗を託す手
葵御前さまの肩をそっと抱く
その姿に、一人の男を感じて葵御前さまの涙に誘われ大号泣する私。
九郎助や小まんに手を引かれ、戻ることを許されず義賢様の屋敷を後にする葵御前さまのお顔が美しくてね……。



さぁ、ここからです。
ここまでで散々泣いていましたが、ここからです

葵御前さま達が逃げおおせた頃、平家の兵達が屋敷を取り囲み義賢様を殺そうと刀を突きつけます。
ここからはもう怒涛の義賢様。
スパンっと澄んだ音で襖が開いたと思うや頭から血を流し薙刀を振るう義賢様が現れ、大立ち回りに見得の連続
孤軍奮闘とはよく言ったもので、たった一人であるにもかかわらず平家の軍勢を相手取ります。
もうね、義賢様ほんとすっっっっっごい
事前に義賢最期について予習をしたら、どの資料を読んでも「壮絶」に尽きていて。
薙刀を持って殺陣をするんだけど、十数分前に同じ人物による刀での殺陣を見たからこそ、薙刀を使って敵をなぎ倒していく時の体の動きがまるで違うことが分かってしまう
特に上半身。
刀と薙刀ではリーチも刃の形も違うから、振り回し方が全然違うし、薙刀を振るった後は敵兵から刀を奪い取りそちらでもふんだんに殺陣をなさる。そのどちらとも、本当に圧巻で。
長さの違う武器を手に堂々たる殺陣を繰り広げるところも
見せ所の戸板倒しも
敵を圧倒する時の顔の強さも
そのどれもが、本来ならば源氏の再興のために平家から身を翻して力を尽くしたかった男の熱量が出ていて。
義仲様は若さ故の自信みなぎる殺陣なのに対して、義賢様は言葉の通りに死力を尽くす動き。
だから、見ている側にも勝手に力が入る。
戸板倒しの瞬間、客席のどこからともなく息を飲む音がしたのも。成功した瞬間の惜しみのない拍手も。
どれも、精度が高いからこそ送られる賞賛だったように思う。


次々と敵を倒していくも、敵の軍勢が減る気配がまるでない。
そして義賢様は病に冒される身。
敵を退けていくうちに響き渡る喘鳴。
やっとのことで飲もうとした水のひと口でさえ、敵兵に阻まれ叶わない。
義賢様が着実に死に近づいていることを、結末(討死)を知っていても肌で実感するこの感覚。
それでも敵を見るや刀を振るう義賢様の武士としての在り方に涙が止まらんわけですよ。
突如、背後を取った敵 (この人も所謂“赤っ面”でしたね。イヤホンガイドでは第二幕の瀬尾十郎が登場する場面で解説されますが、赤っ面=敵役(かたきやく)です)が義賢様を羽交い締めにします。
ここで義賢様、なんと、自身の体と共に背後を取る敵兵を刀で貫いてしまう。そのまま横向きに腹を裂き、遂に倒れてしまう義賢様。
「おのれ、推参なり」という言葉に込められた無念。
刀をついてまだ身を起こそうとする義賢様は、最期にまだ産まれぬ我が子へと思いを馳せます。
「ひと目見ることが叶わぬことが無念でならない」
「もし叶うなら、幼名は自分と同じ「駒王丸」と付けてやりたかった」
言いながら、死闘の跡が汗として滴りまくっているわけです。
顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、流しているのは汗だけなのに声だけで泣いている義賢様が凄まじくて。
決して涙を流してはいないんです。
けれど、声色は確かに泣いているんですよ
よく通る綺麗な声がありありと無念を訴え、その様に涙を流す客席。
その後、敵兵に討たれ刀を落とし、背中をギリギリまで逸らして仰向けから戸板の上へと倒れ込む動作があるのですが、この動作がね、本当に人が生きて息を絶やして最期を迎えているんですよ
この短時間で、我々は人が生きて、死を迎える様を目の当たりにしたのです。
カッと目を見開いて、戸板に背がついた時からだらりと手が力を失って放り出されながら幕が引かれる。
刀が手から離れた瞬間から息を忘れていることに、場面が変わって小まんの見せ場になるまで気づかなかった。
「壮絶」と解説にあった通り、生き様と死に様を立派にやり遂げる宮舘さんに心臓が痛くなる。
※ぶっちゃけ観てる時は「宮舘さん」とか関係なしに普通に見入っていたんですけど


舞台に幕が引かれ、場面は変わります。ここからは実盛様の登場です。
白旗を守り抜けと義賢様に言われた小まんは、逃げ落ちる時に一度平氏に奪われた白旗を単身で取り返しにきます。
小まんが平家の兵たちをシバいて(言い方が上手くないけど、シバいてたんです。言葉通りの意味ではないが(笑))、白旗を奪い返した後に琵琶湖へと飛び降ります。
波に呑まれてあわや、というところで実盛様によって助けられるのですが、運悪く小まんは平家の、しかも清盛の身内やお偉方が乗り合わせる御座船に引き揚げられてしまいます。
ここで実盛様の元へ清盛からの言伝で「腹に子を宿す葵御前が逃げ落ちたらしいから、忠義を確かめるためにもお前があの女を手にかけてこい」と言われます(実際のセリフはこんな嫌な言い方じゃないですけど、まぁ要するにこんな感じです)
それをやんわりといなす実盛様の言葉の言い回しがすごく綺麗で聞き惚れちゃったんですよね。
実盛様も、元は源氏方なれど今は平家に仕える身の上(しかもちゃんと立場がある人)。
小まんが白旗を持っていることを知ると何とかしてあげたいと内心では思うのですが、平家の権力者たちが乗る目の前で小まんを助けたりなんかしたら明確な裏切りになってしまう。
平家の人たちは当たり前ながら「白旗」の存在を許すわけがありませんので小まんから白旗を取り上げようとするのですが、ふと思い立った実盛様は小まんの腕を切り落としてしまうのです。
ここは小まんの強くも女性としての美しさが光る場面と、実盛様のかっこよさが見えるところですね。
そして自らの腕と白旗を追って琵琶湖へと身投げする小まんを見つめ、何とかしてやりたい旨のことを零す実盛様(途中で聞かれていたらと口元を隠す仕草まで本当にお綺麗!!!!)
ちなみに、小まんの腕が飛ぶ場面ですが後から平家のお偉方が扇子でお顔を隠して物騒なものを見ないようお顔を背けていらっしゃることに気づき、いつからあの仕草をしていらしたのか見られなかったのが若干の心残りです。
たった一度の観劇でそこまで全部を見ることは叶わないんですけどね(涙)


さぁここまでで一幕が終わりです。
幕間にお弁当をいただきながらイヤホンガイドに耳を傾けていると、このイヤホンガイドを務めてくださった方がSnow Manのファンに対してコメントを下さいます。
Snow Manのファンは、慣れない歌舞伎を観劇するにあたってお勉強しようとする意欲がすごい」と。
そうか、この感情は偉いと賞賛されるようなものだったのか、と驚いた。
知らないところ、詳しくないものに触れるに当たり最低限のお勉強をするのは当たり前のことだと思っていたから。
詳しくないと分からないもの、というのはどの世界にも存在する(現場でのお約束や“流れ”や、歌舞伎だったら特有のセリフ回し、義太夫さんの節に合わせたお芝居もそれに当たりますよね)。
だけど、分からないからって遠ざけられない自担の晴れの舞台、自担が掴むに至った挑戦で。
分からないなら分からないでいいや、と開き直って知らないまま見るにはあまりに勿体ない伝統芸能で。
歌舞伎に限らず、知らないものならまずは知るところから始めるというのはある種の当然だと思っていたのでびっくりした。
そして、嬉しかった。
私も仕事の合間にお勉強した程度でさほど明るくはなかったけど、予習したおかげで次の展開、その場面でどのような意図の台詞があるのか分かって安心することができたし。
あぁ、手探りでやってたけど間違ってなかったんだなと。
一幕、その渦中で自分がやりたいと望み続けたものを今まさに中心になりやっている最中であるという実感を得る宮舘さんがいたのだなぁ、と。
噛み締めて、ごはん食べてる最中なのに目が潤んで。
※一幕で引くくらい泣いてたのでもうとっくに涙は枯れたものと思ってたけどまだまだでしたw



二幕はタイトルにもなっている実盛様の物語です。
小まんが腕を落とされた後の時系列。
一幕の最後で実盛様が葵御前さまの元へと向かわされることになったので、勿論舞台は葵御前さまがお逃げになった九郎助夫婦(小まんの親)の家。
小まんの息子である太郎吉が「俺が捕ったぞー!!」と可愛い声を弾ませながらお家へと帰ってきます。
太郎吉の手を引く九郎助の表情の優しさ……!
太郎吉を演じる男の子、声の通りと緩やかな声の緩急が綺麗で、台詞を聞くのが楽しかったです。
不審な腕を釣り上げた、という珍妙な出来事に首を傾げていると、そこへやってくるのが斎藤実盛と瀬尾十郎の二人。
瀬尾十郎を演じていらっしゃるのが九團次さん!!
ドラマ等で何度も拝見している方の歌舞伎だ!!!!と胸が熱くなりました。
第一声からね、お声の重厚感と言いますか、何せもうとにかくカッコイイのです……!

実盛様が言いつけられた命は「葵御前が近々子を産むらしいから、それが男なら殺せ。女だったら見逃していい」とのこと。
実盛様と瀬尾に「葵御前さまは男も女も産んでない、産まれたのは片腕だった」と太郎吉が釣り上げた腕を見せる夫婦。
ちなみに実盛様は何とか目を盗んで源氏の味方をしたいので男だったとしても見逃すつもりでいました(九郎助夫婦は知る由もありませんが)。
腕を産む女なんているわけないだろうと瀬尾が怒りを露わにすると、誤魔化そうとした九郎助夫婦を汲んだ実盛様が「どこぞには鉄球を産んだ女もいたと聞くから腕くらい産まれる」と諭します。

文章にしてみると「何やその話は」と言いたくなるような突拍子もないやり取りなのですが、いわゆる古典歌舞伎を見ているのが楽しくてその辺りはどうでもよくなってくる(いつの時代にもご都合主義というものはあったんだなぁ、とは思った)

ちなみに、ここでイヤホンガイドさんが滋賀県にある“手原”という地名は、手を産んだ女の伝説に由来するものである」という説明をしてくださいます。
実を言うと私は滋賀県出身でして。
一幕の御座船の場面で舞台となった竹生島も、小まんのモデルとなった「おとせ」さんの出身である堅田も、ここで出てくる手原も、非常に馴染みのある地名です。
舞台上で繰り広げられる物語を追いながら、「えっ手原ってそんな名前の由来がある地名だったんですか!!?」と動揺してみたり。
一幕の緊迫感溢れる場面で「竹生島って今はパワースポットって紹介されたりしてるんですか!!?」とか、イヤホンガイドさんと脳内で会話をしながら見る始末。


瀬尾十郎をなんとかやり過ごして(そうか?)帰らせたあと、実盛様は「この腕には見覚えがある」と話し始めます。
ここからは実盛様の見せ場。
一幕の御座船の場面で起こった出来事を、九郎助夫婦に話して聞かせる場面です。
ここの実盛様がまぁ〜〜〜〜〜美しい
というかね、表情が色っぽいのですよ。体の動きも見入ってしまう。
あぁ、歌舞伎とはこういうものなのだな、というのが分かるのが二幕なのですが、実盛様の舞うような動き(ここ、座ったままで上半身のみ舞っていらっしゃいました)が本当に素敵で。

ただ、事実とはいえお話しする内容は非常に残酷です。
九郎助夫婦と太郎吉の前で、「私自らが小まんの腕を切り落とし海へと投げ捨てました」と話すわけですから。
平家の役人であることを承知の上で九郎助が憤るんですけど、悔しさを滲ませながら実盛様のことを「さねもりぃ!!!!」と呼び捨てて娘のことを嘆いた後に、我に返るように再び「実盛様」と呼びながら頭を垂れる場面、涙無しには見られません。
そこへ、九郎助夫婦の元に地元の漁師たちが小まんの亡骸を運んできます。
小まんの亡骸にしがみつき「いい子になるから起きて」と泣きじゃくる太郎吉。
そんな太郎吉を見て「体から切り離されても尚、白旗を掴んで放さなかったあの腕にはきっと小まんの魂が宿っているに違いない。くっつけてみたら一時的に意識を取り戻すんじゃないか」と言い出して小まんの腕をくっつけます。

「ンなわけ」と言いたくなりますが、歌舞伎で亡霊が出てくるのはよく聞きますし会話することもあるんですから一時的に人が生き返るのも少なくはないのでしょう。知らんけど。

見事に生き返った小まんは、葵御前さまと白旗の無事を知り安堵します。
最後に太郎吉に何かを伝えようとして息絶えますが、その内容を察した九郎助が「実は小まんは拾い子で、平家の武士から生まれた娘なのだ」というまさかの出生を話し出すのです。
小まんは平家に生まれた人でありながら何の経緯か捨てられてしまい九郎助夫婦に拾われて、源氏の再興を目指す男(折平)と結婚し、太郎吉を産み、義賢様から白旗を預かり葵御前さまを逃がした人、ということになるわけですね。
小まん……何て壮絶な人生を歩んだ女なのですか………!!;;
最後の最後まで白旗を守ろうとした小まんと、腕をくっつけられて生き返るや否や「御台様
(武士の正妻、ここでは葵御前さまの意)はご無事ですか!!!」と死の境地においても忠義を尽くした姿が魅力的でなりません。
これがバレたらどこから彼女の命が狙われてしまうか分からないから、と今の今まで黙っていたことを明かす九郎助。
と同時に産気づく葵御前さま!
展開が早い!!!!!
小まんの生涯に思いを馳せる暇もなく葵御前さまがいよいよ義仲様をお産みになります。
九郎助夫婦が葵御前さまと共に奥のお部屋へ入られて、舞台上には実盛様と太郎吉の二人きり。
太郎吉は子どもなので、何が起きてるのかイマイチ分かっておらず襖の隙間からこっそり葵御前さま達を見ようとします。
それを実盛様が見咎めて「お前は縁側に座っていなさい」と連れて行くのですが、諦めない太郎吉!
そして再び連れ戻す実盛様!!
二度目の太郎吉に向かって実盛様が「今度立ち上がったら「つねつね」するぞ」と太郎吉のぷくぷくのほっぺたを優しく摘んで言うんですよ。
分かります?「つねつね」ですよ?
つねつね…
つねつね………
イヤホンガイドで二幕が始まる前後に実盛様の解説があるのですが、「この当時の実盛は40代、今で言う「イケおじ」です」とハッキリ言われるのです。
「ほぉ…イケおじとな………?」と頭の片隅に置きながら見るのですが、そこでこの場面ですよ。
現代風に言うとイケおじが子どもに合わせて敢えて幼い言葉を使っているわけですよ。
そりゃもうギリィ..って奥歯強く噛み締めましたよ。
そんな…可愛い……!!!

そうこうしている内に義仲様がお生まれになります。
義賢様は終ぞ我が子を目にすることなく逝かれてしまいましたが、実盛様はどんな因果か結果的に義賢様の遺志を継ぎ、彼に「駒王丸」と幼名を授けました。
そして、太郎吉には彼をお守りし、彼が成人した暁には共に兵を挙げる右腕になりなさい、と。
ただ、これで丸く収まるかと思いきやそうはいかない。
何故なら小まんの出生、そしてそれに付随するように太郎吉の出生も明らかになったからです。
葵御前さま曰く「太郎吉は平家方の女の息子。もしかしたらいずれ謀反を起こすかもしれないから、何か大きな武功を立てないと信用し息子の腹心にすることはできない」とのこと。
見ている側からすれば、死してなお白旗と未来の源氏の大将になり得るお腹の子を思った小まんの子だから……と諌めたくなるところなのですが、親と子が同じ志しを抱き続けるとは限りませんし、正直なところ葵御前さまの仰ることもご最もです。
そこへ割り込んでくるのが、いなくなったはずの瀬尾十郎。
なんと瀬尾、屋敷を出て帰ったと見せかけてこっそり全ての話を聞いていたのです。
話は全て聞かせてもらったよ」とばかりに登場した瀬尾は、(源氏側からすれば)大義を成した小まんの亡骸を蹴り飛ばす。
悲しい死を遂げた母、その亡骸を足蹴にされたのを見た太郎吉は、母が懐に持っていた遺品の小刀で瀬尾に奇襲を仕掛け、なんと腹を刺してしまいます(!!!)
子どもの復讐を受け、瀬尾十郎は。
太郎吉が握る小刀を上から握り込み。
なんと、更に深く自らの腹へと刺し込むのでした


こっそりと話を聞いていた瀬尾十郎、実は彼こそが小まんの実の父親です。
な、なんだってーーーーーーっ!!?!?
話は全て聞かせてもらった瀬尾十郎、自分という、実盛より更に身分が上の平家の武士を殺したということをそのまま太郎吉の武功とし、これを信用に替えてやってはくれないかと進言します。
そうして、自らの刀を太郎吉に握らせて首を落とさせるのですが、ここも考えれば考えるほど苦しくなる場面なんですよね。
瀬尾の身でものを考えると、訳あって棄ててしまった娘が源氏の象徴を身を賭して守り抜き非業の死を遂げ
その娘が産んだ子が、母子にわたりそれを守り支えようとしていて。
ただ娘が平家(自分)の子であるという出生により信用が彼女の死後にガタ落ちしたわけです。
親が自分である、ということが理由で
自分の子も、孫も、警戒される立場に立たされてしまったことを、見てしまったのです。
そこで瀬尾は、平家の武士として源氏側に与する娘の死体を足蹴にし孫に自らの命を取らせることで信用してもらうという行動に出たわけです。
棄ててしまった自分の娘とその息子(孫)のため、自分のことを殺させるために娘の死体を蹴飛ばした瀬尾の心中を思うと叫びそうになります。
太郎吉が、瀬尾のことを母の実父であるとは全く理解しないまま瀬尾の首を落としていた様子なのもまた…嗚呼……。
でも太郎吉が瀬尾を自身の祖父だと分かって、自分に武功を作るため討たれるのだと理解して首を落としても自作自演になると葵御前さま達にも分かってしまうからなぁ…。太郎吉は何も知らないまま「母を足蹴にした平家の武将を殺した」と思いながら瀬尾の首を落とすことが正解だったのかもしれない……;;

それほどまでに源平の対立というものが激しく、また忠心を示すのが並大抵のことではなかったのだということがうかがい知れます。


瀬尾の首を落とした太郎吉は、続いて実盛様に対しても「母の仇!」と倒そうとします。
実盛様はそんな太郎吉に向かって「お前のような子どもが私を殺しても、何か裏があると勘繰られて武功にはなり得ない。だからお前が駒王丸(義仲)の右腕として共に成人し、いずれ挙兵した暁にはこの首を差し出そう」と提案します。

こうして一幕の始まりである義仲様の戦いに繋がるのですが、いやぁ、もう実盛様の美しいこと………。
目がね、とにかく美しいんですよ。涼しげな目、視線の動き、太郎吉を見つめる穏やかさの中に、自分を仇として討つ決意を固める事への諦観というか、それが在るべき筋であると受け入れているような。
義賢様も小まんも瀬尾十郎も、そしてこの実盛様も、いずれの大人たちも皆一様に「次の世代を生きる子らのため自分の為すべきことの為に命を燃やす」人たちなわけです。
そんな人たちに守られて育ったのが義仲様であり、彼の右腕である手塚太郎光盛なのです。
19年のABKAIを観ていたなら、多方面からの加護を受け立派に成長した義仲様(だて)と太郎(あべ)が時代を傾ける立役者となる様を見届けることができたのだろうなぁとぼんやり思いました。




最終、三幕は時代が一幕のものへと戻り、駒王丸を抱く太郎吉が戸板を隔てたその瞬間に義仲様の隣に膝をつく手塚殿となっているのです。
この場面、割と角度のある席から見ていたのですが普通に戸板の裏、見えませんでした。技術が凄まじいです。
一幕でもあったように、倶利伽羅峠の戦いにて義仲様率いる源氏の軍は平家の軍を圧倒していきます。
義仲様はもちろん、彼に仕える手塚殿をはじめとした四天王の皆様も殺陣に加わり。
そしてもう一人、義仲様の元へと駆けつけてくる姿があります。
その姿こそ、巴御前さま、その人です。
あのねぇ〜〜〜〜〜これは本当に個人的な話なんですけど、私が史実の巴御前さまが本当に大好きでして
筋書を読んで三幕に登場なされる(そして小まん役を務めていらした中村児太郎さんが二役目で演じられる)ことを知っていたはずなのに、巴御前さまが登場なされた瞬間に感激でテンションが1.5倍くらいになってしまいまして。
義仲様の、現代で言うところの幼馴染みに当たる関係の巴御前さま。
女の身でありながら武芸に秀で、SANEMORI内の台詞でも語られたように幼少の頃より義仲様と共に鍛錬を積み、史実では義仲様に最後まで付き従い共に戦いの場に立った一人でもあると語り継がれる女武者です。
巴御前さまが、私が大好きな巴御前さまが、忠義を尽くした義仲様の前に助太刀に来たと膝をつく
その行為を「差し出がましいかもしれない」と告げる巴さまに「幼い頃より共に野山を駆け回ったお前なら 」と喜んで受け入れる義仲様。

義仲様が刀を、巴さまが薙刀を駆使して平家の軍に立ち向かい、花道にて互いの背を預け合いながら見得を切る様を目にして心の底から感激と涙が止まりませんでした。
なんて凛々しい義仲様と美しい巴御前さまの姿なのでしょうか。
平家の軍を退け、「この戦は我らの大勝利である。勝ち鬨を上げよ!」と高らかに声を張る義仲様。

一幕、二幕と、彼らと彼らが成す源氏再興のために命を尽くした人達を思いつつ、今を生き抜く若武者たちが力強く勝ち鬨を上げる姿に胸を打たれます。



さて、この倶利伽羅峠の戦い
そして(史実では)それに次ぐ篠原の戦いにて義仲様の軍は実盛様を討ち取ります。
そう、実盛様からすれば正に「時は来た」のです。
彼らが生まれた頃に実盛様はこのように残しました。
お前たちが成人した頃、自分は年老い白くなった髭と髪を黒に染めて戦いの場に出る。坂東訛りの武将を討ち取ったなら池で首を洗いなさい
幼い太郎吉が成長したら仇を取らせてやると宣言した実盛様は、その約束を守るため墨を刷り、髪と髭を染めていました。
一方、成長した義仲様と手塚殿は、今や実盛様に対して敵意や憎しみを感じてはおらず。
むしろ幼い命を助けてもらった恩人だからと実盛様を落ち目の平家軍から源氏の軍へと戻ってこないかと進言します。
実盛様は断固として拒否。
軍勢がどうあれ、鞍替えする気はない」と義仲様を突っぱねます。
三幕は、成長を遂げた若武者たちが実盛様の言葉の真意を正しく推し量ろうとする話でした。


そんな折、義仲様と共に育った手塚太郎光盛(太郎吉)が、一人の大将首を取ったと持ってきます。
ただ、その武将は何やらおかしな様子だった、と。
身なりからして位のある武将のはずなのに部下の一人も連れておらず、名を名乗りたがらない。そして声には坂東訛りがあった。

手塚殿の話を聞いて「実盛のことかもしれない」と思うに至る義仲様のお顔の変化がとても素敵でした。
顔がゆっくりと横へ向き、視線が耳の方へと少しずつ動く。
受けた情報を咀嚼して自分の持つ記憶と重ね合わせその光景を自分の中に造り上げる時の目線の動きが細やかで。
切れ長の義仲様の視線が僅かに動く様がよく見えるのですよ!!ここの芝居がね!!!堪らんわけですよ!!!!!
討ち取った首を扇子越しに見つめる様も美しいんですよ!!
雄々しさの中に所作の美しさ、繊細さもあって。
ここはもう終始、義仲様の目のお芝居が堪らなく素敵です。

捕らえた平維盛より「その首は実盛だ」と野次が飛ぶ。
実盛様を助けたい義仲様と手塚殿はそれを聞き入れようとはしないけれど、首を洗ってみると墨が流れ落ち白髪と白髭が露わになるのです。

実盛様は一幕の最後で平家の方々にいただいていた直垂を付けて戦場へ赴いていた。
義仲様の「こちらへ来ないか」という進言を蹴り。
手塚殿とのかつての約束通り、髭と髪を黒に染めて。
二幕の瀬尾もそうだったんですけどね、この話に出てくる大人たちの覚悟が強いのですよ……
「平家の武将として源氏の若者に討たれること」を良しとしている、その覚悟。
実盛様は平家方にも恩のある人なので、おいそれと裏切る事もしたくない。
一方で、元は源氏の人間という、難のある立場の人で。
「自分が実盛様の顔を見忘れるなんて……」「一言、名乗ってくだされば命をお助けしたのに」と、実盛様の首を取った張本人である手塚殿は悔やむ。
そんな若者たちの後悔を拭い取るのもまた、実盛様なのです。
どこからともなく聞こえてくる実盛様の声。
演出上は紗幕越しに死後の実盛様が義仲様や手塚殿に語りかけます。
その程度で揺らぐとは、まだまだだなぁ、と。
狼狽える若者を老獪に笑う様の色っぽいことよ……。

実盛様の死を悼む義仲様たちの顔つきがね、その前後で少しだけ違うんですよね。
これは単なる贔屓目かもしれないけど。すごくシャッキリとされて美しい。
実盛様の命、人生の在り方とこの源平の乱を重ねて感慨に耽ける義仲様が、維盛の命を取らず都を追い出す選択を取るのもまた色々と込み上げてくるものがあります。


そうして平家が都落ちして京を離れ、源氏の軍が京へと入ります。
四天王、そして巴さまが京へ向かう中、舞台上に一人残る義仲様が、白の大旗を振る。
それは源氏の象徴である白旗とは別の、私たちが「旗」と言われて想像できる形の旗なんですけど。
大きく躍動しながら、自分たちの存在を見せつけるように力強く旗を鳴らして、振るんですよ。
この姿をこの方を、この舞台が始まってからずっと色んな人達が守り抜いてきたのだなぁと思うと涙がね、本当にどれだけ泣いてんだって話なんですけどね。



本当に良いものを見せていただいたなぁ、と思うんですよ。
これは私の中での感覚なんですけど、大人が魅力的な作品って良い作品なんですよ。
今回のSANEMORIにおける義賢様、実盛様、そして瀬尾十郎。
彼らは皆自分が守りたいと思うもののために命をかけて、自分で死に場所を決めてその人生を閉じた人たちなんですよね。
まぁ、この辺りは捉え方とか色々とあるとは思うんですけど。
特に実盛様は、幼い頃に手を差し伸べ命を助けた若武者たちを死してなお見届ける立ち位置にいらっしゃって。
私は、あの時代っていつどこで誰が死んでもおかしくない頃だと思ってて、だからこそ自分で死に場所を決めてその通りに命を尽くすことができるのってある種の天寿まっとうだろうと思うんです。
もちろん、義賢様は生きて自ら白旗を掲げたかっただろうし、瀬尾十郎に至っては元々あそこで命を落とすつもりは毛頭なかっただろうと思うんですけど。
ただ、大人たちが「」「忠義」「覚悟」をでかでかと掲げて生きて死んでいくのを見るとね、胸を打たれてしまうんですよ……。

しかもそのうちの一人、自担が演じているんですよ?


そう、カーテンコールまで極力意識しないようにしていたんですけど、義賢様も義仲様も宮舘さんが演じてらしたんですよね
まぁそりゃ、やっぱり自担なので。
他の誰にも替えのきかない魅力があるなと思いながらずっと応援しているわけですよ。
それなりに、自分の中で自担の好きなところとかさ、言語化してきたつもりなんてますよ。
それでも、あぁこの人はこんなに素敵な人だったんだなと気づいたし。
体力、身体能力はもちろん、表情管理とか目力の使いどころとか、足さばき、手の開き方、どれをとっても素晴らしかった。
名だたる方々に囲まれて、世界観を崩さないどころかその中心に立っているんですよ。
これが、宮舘さんがやりたかったことで、今この瞬間の宮舘さんは自分がやりたいと願ったことを正にやっている最中で。
それができるのって何にも変え難い幸せだと思うんですよね。
カーテンコールで万雷の喝采を浴びる姿を見て本当に嬉しくて。この人を好きでいたからこの公演を観るに至ったけど、そこでこんなに幸せの渦中にいる好きな人を見届けることができてこっちもやっぱり幸せだったんですよ。
宮舘さんが20代のうちにこうして大きな和物のお仕事ができてよかったなぁと思うし。
それがこのSANEMORIで、再び義仲様となって舞台の上に立ち、また義賢様の人生もまっとうされたことが私は本当に嬉しく思います。

余談ですが今の宮舘さんの年齢が、ちょうど倶利伽羅峠の戦いの時期の義仲様と同い年くらいなんですよね。
私は木曾義仲という男と宮舘さんは非常にシンパシーのある人だと思っていて(SANEMORIの内容に限らず、史実に残る話でも、という意味です)、宮舘さんご自身も似たところがあるとお話しされていましたが彼もまた情に厚い方であると伝えられているんです。
中でも私は巴御前さまが大好きなので、この二人の別れ際のね、エピソードがね、本当に良いのです……。
今後、それを鮮明に宮舘・義仲様中村・巴御前さまで想像できてしまう辺り自分も中々に罪深いなぁと感じてしまいました。



あと、これは備忘録も兼ねて書き残しておきます。
私が観劇した1月19日、同時期にラウちゃんがパリコレでランウェイを歩いていたんですよね。
日本でかつて時代を動かした男を板の上で演じる宮舘さんが新橋演舞場に立っていたのと同じ頃に、ラウちゃんは現代のパリの地で自ら時代を動かさんと戦略的自己プロデュースをしていたのかと思うと感無量と言うか、改めて私はとんでもねぇグループのファンなんだなぁと実感した次第でした。

デビュー4年目も、更に各々の活動が花開き、揺るぎないものとなってくれたら良いなと思います。